声がでなくなって判ったこと 11月27日
以前から、このブログでお話しているのだが、私は、風邪ひきをこじらし、ある日、突然、声が出なくなった。最初、凄いショックだった。それも、次の日紙芝居文化の総会に出席の為、東京へ行く矢先の時だった。
でも、心配する家族を振り切り、私は、そのまま東京へ行った。その時、一番不自由だと思ったことは、私に声をかけてくださる方々に、ろくろく挨拶の言葉を述べられないことでした、せっかく、声をかけてくださっているのに、本当に申し訳ない気持ちで一杯でした。
また、私が声が出ないようになった時のコミュニケーションの取りかたに、苦慮しました。手話が出来ないにで、それらしき身振り、手振りをしたり、筆談をしたり、なかなか、大変です。
でも、そんな声が出ない私と、とても自然にコミュニケーションがとれた方がおられました。それは、紙芝居文化の会の総会に、来られていた、盲目のミュージシャンの方でした。
帰りの新幹線で、ご一緒させて戴いた時、目が見えないその方が、私にごく自然に言われた言葉で、私はとても気持ちが楽になったことがあるのです。それは、「何の返事をしなくていいから、聴いてください。」とおっしゃって、お話をし始められたことで、とても、なごやかに、会話?いや、心が通じ合ったような気がしました。
私は、その新幹線の中での、その方の自然なやり取りで判ったことは、声を発して、話すコミュニケーションもあるけど、言葉のやりとりをしないで、黙って、相手のお話に耳を傾けて、そのお話に、共感したり、時には、リアクションの空気を送ることで、立派にコミュニケーションて、通いあわすことが出来るんだということがわかった。
言い換えれば、心のコミュニケーションと言うものなのかもしれない。
それに関連して、私の家の近所に、交通事故で、全く言葉を話せない女性がおられる。だが、その方と道で出合った私達は、言葉を交わせないのだが、なんとなく、相手の言わんとしていることが、判るような気がして、コミュニケーションのやりとりが出来るのだ。
こうして、声を出せない私が、判ったことは、自分がしゃべれない分、余計に、相手の言葉を聴こうと云う姿勢が出来るのだ。こちらが話せないからこそ、相手の人の言わんとしていることを、理解しようと聞き手に徹する。これが却って、真のコミュニケーションを図れるのかもしれない。
言葉と言葉を交わして、コミュニケーションを図れるに越したことはないが、それが出来なくても、結構、相手のお話を黙って聴くことだけでも、気持ちって、通じ合うものなんだなあということが、よく理解できたみかんなのであった。
普段は、しゃべると止まらない私が、借り来た猫みたいに押し黙っているのが、とても面白いかったとおっしゃっていた、童心社の会長さんには、少し照れてしまったみかんであったが、それだけ私って、しゃべりな人間なんだと、思われていたのだと言う、自分の以外な、人様から見られるイメージみたいなことも判り、本当に勉強になった。
「声をなくし、初めて知らされる我がひととなりかな」みかん戯作
byみかん
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