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ミクロとマクロ?             2012年9月5日

夜、くたくたに疲れ果てて、ひっくり返っているうちの所へ、謡曲の練習をしていた母が、突然やって来た。あろうことか、私に「葵上」の謡の指南を請うのだ。

謡曲の「よ」の字も知らないうちに、判る訳がない。だが、母の真剣な顔つきに、うちは、もう、しんどい気持ちが、いっぺんにふっ飛んでしまって、気持ちが、シャキーンとなった。

早速、母の練習している、お手本のテープを聞いてみる。母のぶち当たっている壁は、なんでも、六条の御息所の詞の中の「月の明りの~」やったと思うが、その、「のお~」の「お」の母音の発声方法が、どうしても判らないというのだ。(そんなん、うちかて、わかる訳ないやん!)

だが、母と一緒に、何度もテープを聴いているうちに、「あっ!」とあることに、気づかせてもらった。母は、何度も同じ箇所を、それも、穴の空く程、練習しているのだ。だが、その作品である「葵上」全体の中で、その場面の情景が、全く念頭に入っていないで、文字の横の発音記号ばかりに目が行って、その音の出し方ばかり考えているのだ。

この部分の情景「月明り」というのは、六条の御息所にとって、どういう者として、捉えているのか、また、この場面は「葵上」の作品全体の中で、どのような位置づけが成されているのか?それが、抜け落ちているのではないかと、うちは、感じた。

母のことを、偉そうに言える自分ではない。自分自身も、紙芝居を実演する時に、その様に、作品全体を、顕微鏡で見るのではなく、望遠鏡で観て、演じることが出来ているのだろうか?と、自分自身に問いかけた。

うちの考えに、母も共感してくれて、得心してもらえたようだ。うちも、なんか、目から鱗がポロリと、一枚落ちたような、爽やかな気持ちになれて、母に、礼を述べた。

芸の道は、まだまだ遠いが、母のお陰で、気づかせてもらえたことに感謝して、これからも、いろいろな作品にチャレンジしてみようという意欲が、湧いて来た。

紙芝居にも、素晴らしい作品が、たくさん在る。その宝石の鉱山を少しずつ、掘りながら多くの方々に喜んで頂けるように、紙芝居の文化を築いていくことが出来れば、こんな嬉しいことはない。道のりは長いが、ボツボツと歩んでゆこう。口笛吹きながら・・・

                  byみかん

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