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第三の紙芝居の黎明期来る?       2011年7月4日

このブログ、巷ではあまり、知られていないようで、お身内の方が、何時も熱心に見て下さるようで、なんとか、頑張って続けさせて戴いております。本当にありがとうございます。

やはり、紙芝居の語り手ということなので、紙芝居のことを、もっとお伝えした方が、ええのかなあと思い、今日は、私の好きな紙芝居の歴史の蘊蓄を、一つぶってみようと想います。暫くのご辛抱を願います。

紙芝居が、何時、何処で生まれたのかて、結構知られていないみたいですが、今の形式の紙芝居が生まれたのは、昭和5年(1930年)だということだそうです。意外と、新しいでしょ。で、何処で生まれたかと云いますと、東京の下町だそうです。当時は、世界大恐慌の影響と、関東大震災の為、失業者が町中に溢れていたそうです。そんな、下町の、在る長屋で、二人の男性が、今の形の、所謂、平絵の紙芝居を、ハガキ大くらいの大きさの紙に絵を描いて、それを、懐に入れて、市中を廻り、子供達に出会うと、その絵を見せて、飴や駄菓子を販売していたのが、そもそもの、始まりなのだそうです。

そして、瞬く間に、「黄金バット」や「少年王者」などの紙芝居が、子供達の心を捉え、爆発的な人気を博したのでありました。この辺のところは、加太こうじ氏の「紙芝居昭和史」(岩波現代文庫)を御覧になると、詳しく書かれております。

つまり、紙芝居の発生の、そもそもの元は、街頭紙芝居だったのです。そして、その紙芝居の流布性の凄さに着眼した、大人達が、印刷紙芝居を創り、キリスト教の布教や、幼稚園や学校教育などに利用したのです。その、最も恐ろしいのが、戦争を賛美し、戦争のプロパガンダ(宣伝)に利用されたのでした。日本中の津々浦々で、国策紙芝居が実演され、国民は皆、銃後の護として、その紙芝居を見る事で、洗脳されていったのです。紙芝居の唯一の悲しい負の遺産なのです。

そして、戦後、再び焼け野原の中で、真っ先に復活したのが、街頭紙芝居でした。復員兵や、戦争で家や職を失った人々が、その日その日を食べていく為に、食べ物に飢えていた子供達に、甘いお菓子を売る道具として、「黄金バット」のハハハ・・・という哄笑のように、勇ましく街頭紙芝居が、再び子供達の心を掴み、放さなかったのです。

でも、それも、昭和30年代に入り、テレビの普及と高度成長で、仕事を得る人が殆どになり、街頭紙芝居は、街角から、消えていったのです。しかし、紙芝居は全く消えることなく、幼児紙芝居や、図書館で視聴覚教材として残ったり、また、各地で、手作り紙芝居コンクールという形で、脈々と引き続けていかれ、そして、現代、この21世紀の平成の混沌とした時代に、三度、紙芝居が見直されて来た時が、やってきたのです。

紙芝居は、日本で生まれ、多くのその製作や、研究、実演に携わってこられた方々の熱い想いが、生まれては消え、消えては生まれ、今までに、二度、その人気を博した時代が在りました。だが、今こそ、紙芝居という大切なコミュニケーションであり、また、絵本とは違う、共感を呼び起こし、人々の心を捉える文化を、私達は、大切に育んでいく時が、やって来たのではないでしょうか?

これは、私の穿った考えなのかもしれませんが、少なくとも、紙芝居を観ることは、「独り」という気持ちを払拭してくれます。絵本とは、全く異質のものです。何故なら、紙芝居には、必ず、演じ手の存在が必要なだからです。その演じ手の実演に依って、同じ紙芝居でも、全く違ったものになります。つまり、紙芝居は、実演することで、初めて、完結されるのです。

話が、かなり長くなってきましたので、この辺で、置いておきます。紙芝居の歴史を、もっと知りたい方は、上地ちづこさんの「紙芝居の歴史」(久山社)をお読みください。紙芝居の歴史の話をすると、夜が明けてしまいそうなので、この辺で、失礼致します。中途半端な、知識で、大変失礼致しました。それでは、また、さよなら、さよなら・・・

                     byみかん

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