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曽野綾子さんの「老いの才覚」を読んで・・・  2011年3月30日

もうすぐ、4月である。だが、まだ、桜の開花予想の便りは、聞いていない。どうやら、今年の桜の開花は、遅れそうだ。花より団子の私だが、やっぱり、早く、桜の花が開いて欲しいものだ。

今年は、何故か、何時までも寒さが薄れないせいなのか?早く、暖かい春本番と、なって欲しいものだ。4月に入れば、また、ピカピカの一年生が入学して来る。

今までは、無我夢中だったので、一年生が入学しても、気持ちの余裕などなかったが、ようやく、新入生を、気持ちの余裕を持って、笑顔で迎えられそうだ。

もう、孫と同じくらいの歳の子供達と、どう、接して良いのか、最近、とみに悩むのだが、まあ、自分が子どもみたいな所が、多々あり、否、子どもさんに何時も教えられことばかりあるから、今年の新入生も、さぞかし、私のいい「せんせい」になるでろうと、今から、出逢うのを、楽しみにしている。

私も、今は、年度末ということで、日々に追われ、少々、へたれ気味である。もう、そんなに若くはないのだから、無理は出来ないのかと思いつつも、やりたいことだらけの、勝手気儘な自分に、自分であきれ返っている今日この頃である。

人間、生まれてから、この世とおさらばするまで、たくさんの方とご縁を結び、人生を織り成していくのだが、私の人生も、どうやら、もう、峠を越えようとしているのか、はたまた、まだまだ、この先、いくつもの山が、待ち受けているかは、定かではないが、確実に、自分自身の道を、一歩ずつ、丁寧に踏みしめて生きたいものである。

母に借りた、曽野綾子さんの「老いの才覚」(ベスト新書・KKベストセラーズ)の最後のページに載せられた、アデマール・デ・パロスというブラジルの詩人が書いた詩を紹介させて戴きたいと、想います。

夢を見た、クリスマスの夜。

浜辺を歩いていた、主と並んで

砂の上に二人の足が、二人の足跡をのこしていった。

私のそれと、主のそれと。

ふと思った、夢のなかでのことだ。

この一足一足は、私の生涯の一日一日を示していると。

・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・

苦悶の日、

悪を望んだ日、

利己主義の日、

試練の日、

やりきれない日、

自分にやりきれなくなった日。

そこで、主のほうに向き直って、

あえて文句を言った。

「あなたは 日々私たちと共にいると約束されたではありませんか。

なぜ約束を守ってくださらなかったのか。

どうして、人生の危機にあった私を一人で放っておかれたのか、

まさにあなたの存在が必要だった時に」

ところが、主は私に答えて言われた。

友よ 砂の上に一人の足跡しか見えない日、

それは私がきみをおぶって歩いた日なのだよ」

私は、曽野綾子さんのような、敬虔なクリスチャンでは、全くありませんでしたが、この最後の、言葉で、後は、なんの解説も、後書きもなく終わっている、この本と出逢って、自分の今まで生きて来た人生観に、物凄い、稲妻のような驚愕の電流が、全身に響き渡ったのでした。

                   byみかん

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