紙芝居は言葉のあやとり 2010年10月10日
明日は、飛鳥で、今月の31日に、夢プラン「飛鳥で紙芝居がいっぱい」の、下見を、紙芝居仲間の方々と行く予定だ。
今年は、平城遷都1300年を寿ぐ意味でも、私達は、日本人の心の故郷「飛鳥」で紙芝居を演じさせて戴けることが、本当に、この上ももない喜びである。
日本で生まれた文化で、世界中のどこの国にもない文化である、この紙芝居を、美しい日本の童謡と共に、飛鳥を訪れる人々に、楽しんで戴けたらと想うのだ。
紙芝居は、お芝居だが、一人で演じないといけない。そして、美しい日本語で書かれた作品を、作家の方が人生を懸けて創られたのだから、言葉を丁寧に、そして、優しく扱わなければいけない。そう、まるで、紙芝居の舞台を使って、言葉をいろいろな形に、一人で綾取りをするような気持ちで演じる。
たかが紙芝居、されど、紙芝居。紙芝居の秘める魅力は、底なしなのだ。紙芝居を謗ると、頭を打ち、甘くみると足下をすくわれる。紙芝居は、観客がおられるから、もう、始まったら逃げられない。最後までやり遂げるしかない。途中で、やり直しが出来ない。やめられない!とまらない!
そんなしんどい、紙芝居やさかい、やり甲斐があるんですね。どんな文化も、そうやけど、人間の哲学みたいなものが込められていて、それでもって、演じ手の人生観が、丸ごと演じることで、観客の方に解る不思議な文化ですね。
言葉は、宝。言葉は、命。言葉は、人生そのもの。本物の紙芝居を演じることで、言葉を自分が、今まで生きて来た想いを、ありったけ綾取りたいと想う、みかんであった。
10月31日は、飛鳥で、紙芝居を楽しんで、仲間の方々と演じられるように、明日の下見をしっかりとして、本番まで、お稽古に励みませう。
byみかん
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