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「踊る大捜査線」再び登場す         2010年7月17日

先日、このブログで、映画「踊る大捜査線」を観に行き、織田裕二の演技に深く感銘を受けたことを申し上げた。そして、今日も、テレビで、7年前の「踊る大捜査線」の映画を放映された。今日の映画のテーマは「リーダー」そして、一番最新の今回のテーマは「死」だ。

時代が変化し、人々の価値観も変わってきている。それは当たり前のことだが、織田裕二の普遍的な、自然体の演技と、彼を取り巻く脇役の方々の演技の輝きは、変わらない。ただ、一人、いかりや長介さんの存在の有無を除けば・・・

人間の生きているという存在が、これ程顕著に表わされた、いかりやさんの演技はないと、不思議な気持ちがした。まるで、自分はもう、この世からもうすぐ存在しないことを予期するように、長介さんは、映画の中でも、若い人達に、自分の職務を委ねて、立ち去ったのだ。

私は、テレビを観ていて、いかりやさんは、もう、既にその時に、自分の死が近いことを知っていたのではないかと、実感した。そんないかりやさんの、立ち去っていく後ろ姿を見ると、「うちらも、もっと、しっかりと生き切って、次の世代の人々に、バトンタッチせんといかんなあ。」と、しみじみ思った。

最後に、織田裕二が、今回の映画を紹介する時に、「ぼくらは、いろいろなことを乗り越えて、そして、生き続けなければいけない。」というようなことをおっしゃっていた。

この地球という星に生まれ、あまた生き物が居る中で、人間だけが、他の生物の命を戴いて、自分は、何物にも命を奪われないで、生きている。そんな、畏れ多い、罪深き人間として生まれたからには、生きることを全うする義務が在る。

そして、自分の生まれて来た存在の意味や価値を、自分自身に問いながら、毎日を精一杯生きる権利が在るのだと、うちは想う。

なんや映画の話題から、哲学的な話になってしまう、支離滅裂なところが、このブログの特徴でおます。

本物の紙芝居の作品も、そんな人間の生きる意味と喜びを現した作品が、たくさんあります。そして、紙芝居は、そんな作品を演じる人間の、今まで生きて来た姿勢と心が作品世界を通じて演じられて、初めて完結されるのです。

映画もお芝居も、落語も漫才も絵画もダンスも、すべての本物の文化に言える事は、人間の生きる意味を込められているけれども、その渡し方が違うだけなのです。これは、紙芝居文化の会の代表であり、紙芝居、絵本作家の、まついのりこさんが何時もおっしゃっている言葉です。

そんなほんものの文化に込められている、作家の世界を私達は、「光の源」と言っています。その「光の源」が作品の中に在るか、ないかで、ほんもの紙芝居(文化)であるかどうかが、問われるのです。

「踊る大捜査線」の映画に関して言わせて戴ければ、織田裕二が、ほんものの役者なのです。そして、脇役や、脚本も、みんなほんものだから、これだけ人気があって、評判になるのです。

どんなに役者さんが上手く演技をしても、作品の中身が本物でなければ、おもしろくありません。また、その逆もそうなんです。だから、ほんものの文化を創ることは、本当に産みの苦しみがあると想います。

ほんものの文化の価値を解る人(自分にも戒めて)が、一人でも多く増え、この、日本という国が、身も心も豊かな国になることを、私は切に願い続けます。文化を大切に想い、伝え続けることを怠っては、この国は、滅びるでしょう。

                   byみかん

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