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紙芝居「かたきうちの話」            2010年5月12日

私の紙芝居活動の目標は、優れた本物の紙芝居の作品を演じることを通じて、人間として、如何に生きるかということを問いかけながら、観客と共に、生きることの意味と喜びを共に実感し、先達の築いてこられた、伝統と志を、次の世代を担う子供達に引き継いでもらい、人々の幸福と安寧を永久に保証し、また、自分自身の喜びが他の人々の喜びとなることを、脈々と受け継いでもらえることを望んで、日々、邁進し、自分磨きを怠らぬ様に努めている次第である。

文章が、かなり堅くなり、理解しにくい方もおられるであろうが、要するに、優れた作品を演じ、出来るだけ大勢の方々に紙芝居を観て戴くことで、共に、この行き詰まった現代社会に、一筋の光明を照らすことが出来れば、こんな嬉しいことはない。

そんな、本物の紙芝居の一つに「かたきうちの話」という作品がある。これは、私が、何時もお世話になっている、近くのお寺の文庫で、お借りした作品で、その作者はなんと意外にも、国語の教科書にも載っている「ごんぎつね」や、子ぎつねが手袋を買いに行く話「手袋を買いに」などの、童話作家で有名な、新実南吉の作品である。

この物語は、兄の仇を討つ為に、十年という、気の遠くなるような歳月を、日本国中を渡り歩いて、探し続けている主人公が、京の或る旅館に宿泊した時に、一匹の虱を柱に封じ込み、一年後に、その虱に自分の血を吸われ、高熱を発して、虱に仇を討たれたと実感した、主人公の侍が、遂に、兄の仇の男と出逢う。だが、その男は、盲目となり、仇を討つのは、大根を切るより、た易いことなれど、ふと、自分に敵討ちをした、虱のことを思い浮かべ、自分は、虱ではない。人間なのだ。その、万物の霊長たる人間の自分が、本当は、兄の方が、闇討ちにしようとして、返り討ちに遭った仇を、しかも、目の全くみえなくなってしまった男を、どうして切れようか?

人間としての在り様に、気づいた侍は、その仇なる男を刀で切って、兄の仇を討つことを思い留まった。そして、最後の場面で、僧侶となった敵討ちの男は、今では、諸国を托鉢して回り、人々のために、自分の人生を投げ打って奉公し続けるのであった。

私は、この紙芝居が、何故本物なのかと実感したのかというと、人間として生まれた意味を、この男は、一匹の虱に教えられ、命の尊さ、人間としての誇り、そして、人を赦すという寛容の心等、、自分達が生きていく上で大切なメッセージが、多様に、しかも、小さな虱と人間の対比という形で表現されているところが、実に素晴らしいと思った。

新実南吉は、わずか30年の人生しか生きることができなかったが、彼は常に、生きることとは、命を尊ぶということは、どういうことであるのかということを、常に自分自身に問いかけながら、この作品を創作したのだと想像する。

因みに、この話は新実南吉の28歳の時の作品である。晩年というには、あまりにも若い南吉が、生きることの意味を自問し、敵討ちという、日本独自の江戸時代の慣わしを通して、人間の誇りと生命の尊厳を著したのであろう。

この作品も、また、機会が在れば、一人でも多くの方々に観て戴き、今一度、現代社会に生きる私達に、人間として生きるということは、どういうことであるのかを、考えて戴きたいと想う、みかんであった。

                   byみかん

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