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映画「わたしは貝になりたい」を観て      12月5日

午後、かねてから観たいと想っていた映画、「わたしは貝になりたい」を観に行った。予想どうり、やっぱり、凄かった。感動した。この映画は、以前にもこのブログで紹介したが、戦後間もなく、俳優のフランキー堺さんという方が主演されて、とても話題になった映画だ。

今回は中居正広さんが、主人公の名もない床屋の亭主の役を務めた。彼の演技も素晴らしかったが、私がこの映画を観て、一番感じたことは、落差の残酷さということである。

どういうことかと言うと、戦争の空襲で焼け野原の惨状の場面と、美しい海や山の日本の風景のシーンとの相違。それは、人間が起こした、おろかな戦争の結末と、それでも変わらない、自然の普遍的な美しさ。その背景の中で、不条理にも戦犯として捕らえられ、死刑という、残酷な現実を突きつれられ、愛する家族と会えない辛さ、悲しさの中で、必死に生きていく主人公の姿と、そして、免罪になったと勘違いして喜んでいた結果が、死刑執行だったという、喜びと失望の落差。

この、二つの落差で、私が気付かせてもらったことは、人間の現実を在りのまま受け入れることの苦悩と、その現実と如何に向かい合って生きていくことが大切であり、大変なことなのかということが、最後の主人公の科白が全てを語っているのだと思う。「どうしても生まれ変わらなければならないのなら、私は、人間になどうまれたくない。うまれかわるのなら、海の底に沈んでいる貝になりたい。」という、この言葉に全て集約されているのではないだろうか?

人間としていきていくことの辛さ、悲しさ、儚さが、この言葉を物語っている。だが、私は思うのだ。この映画が何故また、この、今の時代に創られたのか?それは、勿論、戦争の残酷さ、人間社会の不条理さも、伝えなければいけなかっただろう?だが、この映画に、明るい希望や未来は見出されないのか?否、それは在る。主人公の子供の、明るい笑顔と、妻が、夫の帰りを信じて、新しい散髪の椅子を購入し、美しい高知の海のシーンに映えた風景が、これからの新しい時代の夜明けの始まりのように、私は読み取れた。

映画の解説になってしまったが、私は、上川隆也の言った科白が、印象的だった。「人間、50年いきようと、70年生きようと、どういきてきたかがたいせつだ。」人間はなんの為に、自分は生まれてきて、死んでいくのか、その答えを見つけることが出来、使命を全うした人が、本当の幸せな生涯なのではないだろうか。

生きていくことは、大変だけど、使命を見つけることが出来れば、それを全うしていくことが、この上もない喜びとなるのだと、私は思うのだが、如何なものだろうか?・・・・

              byみかん

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