みかんのオリンピック評論8/14
まだ始まって間もない、北京オリンピックを観て、感じたことを述べさせて戴きたい。
まず、柔道に関して、こちらは、お家芸だけあって、さすがに金メダルの宝庫となっている。だが、今日の男子100kg級の鈴木選手の試合を観て、感じたことは、少し厳しいかもしれないが、一回戦では、対戦相手を少しなめていたきらいがする。何故かと云われたら、一本負けした時の彼は、信じられないというような、空ろな目をしていたからだ。試合が始まった時から、彼の腰は引けていて、相手を負かす機会を窺っていたように思う。それが、あっと言う間に、両足をすくわれてしまったのには、やはり、彼に隙があったからであろう。
敗者復活戦の時も、もう、気持ちが空回りして、勝つことばかり考えているように思われた。その、気持ちが相手の若い選手にもよめるほど、彼は心が、勝ちに執着していて、その気持ちだけで、勝負に挑めば、結果は必ず決まっている。一本負けである。
柔道の触りも知らない私は、かなり生意気なことを言わせて戴き、鈴木選手には、大変失礼の段、お許し戴きたい。このことで、何が言いたかったかと言うと、彼が試合に負けた後の、インタビューで言っていた言葉が、「ああ、やっぱりそうだ!」と感じたからだ。それは、彼がなんと言ったかというと、別に悪いことではないのだが、「自分はもう、出来ている」と慢心していた言葉を口からもらしたのだ。
私も、これは自分で、常に気をつけなければいけないと、思っていることなのだが、「これで良しと、想う気持ちが、足元をすくわれる」のだと、何時も、私のボランティアの師匠である、大河萬子次(ましじ)先生に教えられている、お言葉がある。
それは、宮本武蔵の「千回の練をし、万回の段を常とせん。」という言葉である。人間死ぬまで、勉強しなければいけない。自分に自信をもつことは、勿論大切なことである。だが、それ以上に、どんな境遇に遭っても、練習で培った能力を発揮できる、平常心とでもいうか、「無」の心になることが、とても大切なのではないかと想う。これは、とても難しいことで、私も、物凄くプレッシャーに弱い人間だから、紙芝居を実演させて戴く時、常に、自分に言い聞かせていることは、「一人の人の前でも、千人の人の前でも、同じ心で、精一杯演じさせて戴くように努めよう!」と言うことだ。
ええかっこしいな、言い方かもしれないが、そう、在りたいという、これは自分の願望であり、希望でもある。話をオリンピックに戻すが、今回の男子の体操の選手達の活躍が素晴らしいが、それは、彼らは、現代社会の日本人が忘れかけて来た何かを、取り戻しつつあるのでは、ないだろうか?
男子バレーの対中国との試合を見ても、思ったことだが、結果は敗れてしまったが、最後のセットまで試合を続けることが出来たということが、素晴らしい。水泳の北島選手は、明らかに、プレッシャーを、心地良い刺激として、オリンピックそのものを、楽しんむだけの余裕を持ち合わせている。
それぞれの、選手の悲喜交々があるが、私が言いたいことは、結果も、勿論大切ではあるが、その過程をもっと問うてみてもいいのではないかと思うのだ、オリンピックは「参加することに意義がある。」と言われる所以は、どうも、その辺にあるのだと、私は思う。
勿論、女子マラソンの野口みずき選手の様に、欠場する勇気も大切だとも、思う。柔道の鈴木選手は、まだ、心の整理が出来ていなと思うが、是非、この悔しさをバネに、もう一度、雪辱をはたしてもらえたら、私は嬉しい。大切なのは、勝つことよりも、負けた後のどう行動するかということだと、私如きの生意気に思うことを、お許し戴きたい。「顔晴れ!日本チーム鈴木キャプテン!」貴方の、笑う顔が見てみたいです。
byみかん
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